「re vol.2」
biscuit gallery / Tokyo
2023
協力:奥岡新蔵
写真:竹久直樹
この度biscuit galleryでは2023年10月8日から10月28日の会期にて粂原愛と髙橋健太による展示「re vol.2」を開催致します。前回の「re」に引き続き、本展示では西欧編纂型の現代美術と日本美術が交差する今日の私たちの美術的な土壌を捉え直し、改めて考える場を鑑賞者と共有する意図を下敷きに、今日のアートシーンの一部の摘録となることを目指します。
展覧会タイトル「re」は「再び」「反対」などの語意を形成するプリフィックであり、その語義的な理由から「re」とは何かしら元となる、あるいは対峙する「何か」を伴います。同時に、その「向き合う何か」は本展示における大きな主題の一つであり、本展示の目的は外来種としての現代美術の形式をそれとは異なった美術形式が既にあったこの国がそれを受容したことを前提として、その今日に結果として在るアートシーンの一部の表現を改めて考察すること、またその二種の因子をいずれとも廃さずに私たちにとっての《現代美術》の様相と可能性を見つめ直すことにあります。
とはいえ、誤解を招かないために言えば、この展示に参加する粂原も髙橋も(広い意味での現代日本という時代区分を共有してはいるものの)それぞれに表現の志向は異なったアーティストであり、企画の趣旨は二人の表現上の共通項を類推させる機会の提供ではありません。異なった志向性を持った二人が共有する土壌に考えを巡らすこと、そして交雑した因子を持ったその土壌の上に居る二人の美術家の優れた仕事を紹介すること、企画の要旨はこの二つに尽きます。そして二人の招聘にあたり、今回の「re」では「手前と奥」というライトモチーフを導入しました。前者は2000年代以降における日本絵画の表現形式について、後者は日本絵画における余白の存在や不在の表現についての言い換えであり、この構造を通じて、つまり「目に見えているもの」と「目には(直接には)映らないもの」の二つの観測地点から私たちの美術について思考する機会を築けたらと思います。
では「奥」とは何か。「奥」とは、眼前には無いが、予感によって感知できる領域であり、或いはその感性そのものとここでは定義づけています。暗がりに何かを感じて怯える心、言外に匂わされるニュアンス、若しくは他者の頭の中の世界。このことを考えるため、平安中期の歌人・藤原公任が『和歌九品』で語った「餘りの心」、後代になっては鴨長明が『無名抄』で語られた「余情」という言葉を展示上の頼りとしました。形として現れていないが、現れていないだけで、そこに在る/居るような予感がすること。今回の「re」では、これまで建具を用いて意図的に画面に遮りの効果を与え、顕現されない存在を示唆させる粂原愛の絵画とともに、この点を考えたいと思います。粂原は一つの絵画に「視えている箇所-視えない箇所」の二重性を生み出し、つまり不在を通して存在を予感させ、想像させる画面を鑑賞者に提示します。その「目の前には無いが予感はすること」こそが、本展示で考えたい「奥」の手触りであり、その不確かな触覚を述べる詩的言語が、私たちが背負う美術史には多く見受けられるように思えるのです。
一方の髙橋健太は、本人の言葉を借りるならば「残ってしまったもの」として日本絵画を捉え、明治や戦後の文化的な改造と変質を踏まえ、固有の歴史観をベースに今日の日本絵画のコンテクストを捉え、実践しているペインターです。彼の絵画には、デジタイズされた今日の私たちにとっての生活のリアリティ、近代都市の生活者のモダリティにめぐらせた考察を、彼の考える日本絵画固有の線描法、技材に由来する粒子的なテクスチャを取り入れながら、90年代の日本に生まれた世代感覚を織り混ぜながら描いたものが多く、言わば日本的な図像感覚と絵画技法に向き合い、それらを現代絵画に持ち込もうと企図するかのようです。「たまたま生まれた場所にあった美術史が、少なくとも西欧的なそれには整合性がつきにくかった。といって絶望はしたくない。ポジティブに捉える道を考えたい」と話す彼は、複雑な因子の絡み合った美術史を要素分解し、時に矛盾するかに見えるそれら一つ一つの因子を無視するのではなく、むしろそれらが共生した土壌をスタート地点とします、本展示において髙橋に頼ったのは「手前」、つまり日本絵画のフォルマリズムの考察パートですが、それは彼が堅持するようなやり方でこそ、そしてその言葉を借りるならば「残ってしまったもの」を見極めるところから始まるようにも思えます。
奥岡新蔵